酒井玄蕃は何故連戦連勝出来たのか?強さの秘密と毒殺説について。

幕末期には幕府と対立する藩が多く、あちこちで戦争が起こりました。その最大の戦いが明治の新政府軍と旧幕府勢力と奥羽越列藩同盟と間で勃発した内戦、つまり戊辰戦争となります。

結果的には新政府軍が勝利し、この後国内は平定していくわけですが、この戊辰戦争において、新政府軍を最も恐れさせた人物がいます。それが酒井玄蕃(酒井了恒)です。

酒井は戊辰戦争で庄内藩の二番大隊を指揮。特に秋田方面の戦いにおいては連戦連勝で新政府軍からは「鬼玄蕃」と呼ばれるほど、その強さは圧倒的なものでした。今回はこの酒井玄蕃が何故それほどまでに強かったのか、酒井玄蕃最強伝説や毒殺説について調べてみました。

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酒井玄蕃のプロフィール

酒井は1842年12月13日、出羽庄内藩家老の酒井了明の長男として生まれます。その後、秋保政右衛門に兵学を学びます。

やがて戊辰戦争が起こると、庄内藩第二大隊の大隊長となり、その強さは新政府軍から恐れられるほどのものでした。「鬼玄蕃」とまで言われたこの酒井ですが、実際は慈悲深く気遣いの人物だったということです。

例えば、占領地では孤児や窮民の救済をしたり、通常は戦地では乱暴狼藉は当たり前ですが、酒井はこれを厳しく戒めました。また敗れた敵軍の兵の遺体も丁丁寧に埋葬するなどしたため、敵味方を越え酒井を慕う人が多かったようです。晩年は肺を患い、肺病で死去。享年34歳。

何故酒井の部隊はこれほどまでに強かったのか

酒井の領地である庄内地方は、代々酒井家が治めてきました。

しかし全国的に見ると、大名は「転封」により頻繁に領地替えが行われてきたのです。このまま酒井が庄内地方を治めていくと農民たちはそう思っていたのですが、ついにその酒井にも「転封命令」が下されます。その時なんと農民たちが幕府へ直談判を行い、この「転封命令」が却下されるという前代未聞の出来事が起こったのです。

このことに見られるように、酒井と農民たちの間には厚い信頼関係があったのです。この信頼関係が戦争時にも大きく影響し、戊辰戦争での連戦連勝となったと言われています。

農民は酒井のために戦い、酒井は農民の生活を守るために戦ったのです。同じ東北の会津藩は藩に殉じる農民は皆無で、皆家財を持って逃げ散っていったのと比べると、藩と農民との一体感は大きく異なります。一丸となった庄内藩とばらばらの会津藩。これが強さの違いとなって表れたのです。

その他にも酒井玄蕃の指揮能力の高さなども挙げられます。作家の伊東潤氏は酒井の戦術に関して以下のように述べています。

新政府軍は諸藩軍の連合体なので、それぞれ離れた場所に陣所を設けることが多い。玄蕃はそこを突き、まず装備が旧式で弱い敵を叩き、薩長両藩などの強敵が慌てて駆け付けてくれば兵を引き、敵が深追いしてくるのを待ち、有利な地形に誘い込んで包囲殲滅するという戦法を取った。まさに敵の弱みを突き、地の利を生かしたセオリー通りの戦術なのだが、これを計画通りに実行し、成功させるのは容易でない。

https://newspicks.com/news/3123320/

藩と農民の一体感と酒井の指揮能力があったればこその強さだったのだと。

酒井の子孫は今

毎年行われる会津まつりでは、会津藩公行列が見所の一つとなります。この行列は総勢500名以上が当時の人々に扮して会津若松市内を練り歩くものです。この隊列の中にはもちろん庄内藩もあり、酒井も登場します。

そして2017年の藩公行列にはその酒井の子孫である酒井潤氏が酒井玄蕃役を務めて市民から喝さいを浴びました。今もなお、庄内藩と酒井家には厚い絆があることをこういったエピソードから知ることができます。

死因と毒殺説

大河ドラマで知られる西郷隆盛とも、藩全体で交流があった酒井。西郷の征韓論を聞き、それを「心覚えの大意」として記したほどです。さて、その酒井の死因についてですが、一般的には肺病とされています。

しかし一説には毒殺という話もあるのです。人望があり頭もキレる酒井。いつ反撃の狼煙を上げ、あの「鬼玄蕃」が蘇るのか、当時の政府は気が気ではなかったことでしょう。

また酒井が34歳という若さで亡くなったということも、この毒殺説には妙な説得力を持たせる一因となっています。

しかしこの説には医学的な根拠もありませんので、やはり肺病が死因と考えるのがいいでしょう。ただ、こういった話が出てくるということは、裏を返せば、酒井はこのような可能性も考えられる程に政府から恐れられていた人物だったということなのでしょう。

以上、酒井玄蕃についてでした。

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