すいません。
初めに謝っておきますが、わたくし、浜木綿子(はまゆうこ)さんの事は全く知りませんでした。
しかしながら本日徹子の部屋へ出演されるときいて彼女について調べていたところ…
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香川照之さんの母親だったのですね。
さらに旦那とは今を遡ること58年前に離婚。以後独身を貫き通しているという事でした。男性は腐るほど寄ってきたのでしょうに、それをはねつけて何故独り身を選んだのか?
等、色々と興味が湧いたのでその辺の事情を調査してみました。
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名前 | 浜木綿子(はまゆうこ)・本名 香川阿都子(かがわあつこ) |
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生年月日 | 1935年10月31日 80歳(2016年5月現在) |
出身 | 東京都目黒区 |
身長 | 157cm |
血液型 | B型 |
元旦那 | 三代目市川猿之助 |
生まれが1935年ですから盧溝橋事件より前になりますね。そして太平洋戦争が始まった1941年には6歳という事ですから挺身隊として工場で働かせられたのかなと思い調べると、1944年の時点で14歳になっていないと挺身隊としては召集されなかったので日々の米軍の絨毯爆撃の中おとなしく暮らしていたようですね。
ウィキペディアより
1953年(18歳)-宝塚音楽学校から宝塚歌劇団の40期生として入団します。成績は同劇団の中で3位だったといいますからひょっとしていいところのお嬢さんだったのでしょうかね?
1961年(25歳)–同劇団を退団。その後は東宝現代劇と契約して以後舞台女優として活躍します。
出演している舞台や映画等を調べてみたのですが、やはり舞台がメインであり、意外と映画への出演は少ないですね。
当時テレビより映画隆盛の時代なので彼女ほどの経歴があるならもっと映画に出演していてもいいのではとも思われますが、これは意外でした。
映画初出演は宝塚在籍中の1957年「美貌の都」という東宝宝塚作品。チョイ役での出演のようです。
テレビ初出演は宝塚退団後の1965年の大河ドラマ「太閤記」の土岐頼政の孫の「おふく」というマイナーな役どころでした。しかし妊娠が発覚して番組を途中降板しますが、これは後ほど詳しく触れます。
その後は、舞台>テレビ>映画という出演頻度。
映画に関しては1980年を最後に以後調べたかぎりにおいては出演されていないようです。肌に合わなかったのでしょうかね。因みにテレビだと2000年代に入ってからは2本のみの出演。舞台は2000年代になってもほぼ毎年出演されています。
1965年-三代目市川猿之助と結婚。大河ドラマ「太閤記」にチョイ役で出演していたのですが、妊娠のため降板し、12月7日に息子である照之さんを出産します。
1966年-旦那が不倫相手の元へ出奔。
1968年–離婚。
照之さんは浜木綿子さんが引き取り以後女手一つで(正確には母親の助けを借りながら)照之さんを育てながら女優として活躍します。
結婚した翌年に早くも旦那が浮気…という展開へ。
これだけ読むと「なんて酷い旦那なんだ!」と思われますが(私がそうでした)実はその裏には複雑な事情があったのでした。
猿之助さんの不倫相手とは日本舞踏藤間流派の家元で女優の藤間紫(ふじまむらさき.1923年生まれ)さんです。
猿之助さんは12歳の時にそんな彼女に恋心を抱いてしまいます。おそらく歌舞伎役者として踊りを習っている関係で知り合ったのしょう。しかし相手は猿之助さんより16歳も年上でしかも既婚で子供あり。当時38歳だったわけですが、多感な年頃に美貌の人妻から手とり足取り指導されれば、強烈にインプリントされてしまうのはしょうがないといえばしょうがないですね。
つまりは浜木綿子さんとの結婚はそれを断ち切ってのある種の打算的な結婚だったのです。
同棲生活を始めたのが猿之助さん27歳、紫さん43歳の時。その後どういう訳か35年にも渡る同棲生活を続け、2000年に結婚します。しかし2003年に猿之助さんが脳梗塞で倒れ、2009年には藤間さんが肝不全で他界します。
願いが成就した反動で安心しきってしまったのでしょうかね。実に数奇な運命です。
当時周辺からは離婚の原因が浜さん側にあると批難され、それをじっとこらえていたと、本人が後に漏らしています。
「おまきちゃん(インタビュアー)には、正直に話すわ」「悔しくて、悔しすぎると涙が出ないのよ~。大声上げて叫びたいと何度も思ったわ」zakzakより
当時は今より男尊女卑の傾向が強かったのでしょう。妻としての配慮が足りないと非難されたのか、それとも歌舞伎役者の妻として、旦那を他の女性に寝取られるなんてだらしがない、と言われもしたのでしょうかね。
そして離婚の理由なのですが、簡単に言えば旦那の家出。
しかも不倫相手が初恋の相手で美貌の師匠ときては浜さんとしてはお手上げだったのでしょう。
しかし、浜さんは息子命というほどに照之さんを大切に育てたといいますから、やはり旦那の事もとても好きだったのではないでしょうか。
さらに一度も旦那の悪口を言わなかったという影響を受け、照之さんは記憶の片隅にあるかないかの父親の元へ100本のバラを持って会いに行ったそうです。その心中を考えるとこうして書きながら涙が出てきそうになりましたが、そんな猿之助さんは照之さんを拒絶します。
理由は「家庭と決別した瞬間から自分は蘇生した」との事ですが、詳しい事情がわからないのでイマイチ腑に落ちません。
察するに未練を断ち切ったという事なのでしょうか。またこうしてズルズルと照之さんと会い続けたら情にほだされて再度自分を見失ってしまいそうな危惧を覚えたとも考えられます。裏返せばそれだけ浜さんや息子に対しては捨てがたい(断ち切り難い)特別な感情があったのかもしれませんね。
その後は猿之助さんの妻の紫さんのとりなしもあって関係が修復されます。
そして照之さんと息子の歌舞伎界進出に猿之助さんは
「浜さんありがとう。恩讐の彼方にありがとう」
という感謝の言葉を述べています。恩讐の彼方という言葉、なかなか出ませんよね。人間の因果の複雑さ、業の深さをまざまざとみせつけられたような気がします。
以上、浜さんや照之さん、そして猿之助さん、紫さんをめぐる事情でした。
因みに猿之助さんは藤間紫さんの死後、30歳年下の女性と同棲を始めたとの事。老いて尚なんとやらといったところでしょうか。
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