歌手の青山ミチさんが急性肺炎のために1月に亡くなっていたしたそうです。
享年67歳。
デビューした1960年代には多くのシングルを発表しますが、覚せい剤の使用でつまづき、以後3度に渡って警察のお世話になり、晩年は生活保護を受けていたとか。
スポンサードリンク
という事で彼女の生い立ちを調べてみました。
Contents
amazonより
名前 青山ミチ
本名 八木フサ子
出身地 神奈川県横浜市
1949年2月7日-2017年1月
享年67歳
在日米軍の黒人兵と日本人女性の間に生まれます。父親の影響なのか、リズム感がとても良く、幼少の頃から歌を嗜んでいたようです。
ジャズ喫茶「テネシー」でコンテストを受けていたところを見出され、
1962年に「ひとりびっちで想うこと」でデビューします。この時青山さん13歳。
当該のジャズ喫茶を探したのですが、場所は東京の銀座みゆき通りにあったようです。1960年代というとGHQはとっくに引き上げているはずですので、戦後乱立した米兵相手のお店の名残なんでしょうかね。
ジャケットを見ると分かるのですが、ハーフという事を隠して日本人としてデビューしていような形跡が見れられますね。
その後…
1966年まで25枚のシングルを発表。
ヒット曲は
1963年に発表された「ミッチー音頭」と
1965年に発表された「涙の太陽」との事。
「ミッチー音頭」は後に遠藤賢司さんがカバーしています。
1966年10月
覚せい剤取締法違反で逮捕され、
1974年3月
万引きで逮捕
1978年
覚せい剤で再逮捕。
この時に芸能界を追放されたという事ですが、1度の猶予はあったようですね。
1999年
覚せい剤で3度めの逮捕
25枚というシングルを発表しながら何故彼女は薬物に手を出してしまったのでしょうか?
その鍵を握る記事が以下のサイトにありました。
母親は夜の商売(具体的な記述はないですが)をしていたようですが、その影響なのか娘を過保護に育ててしまい、叱りつけると、青山さんはすぐにどこかに消えてしまったそうです。
そんな彼女が歌に生きがいを求めた、というのは全然有りでしょう。
しかしデビュー時は13歳。黒人と日本人のハーフという事で、心無い人から「合いの子」なんて揶揄された事もあるんだとか。今では考えられないですが、前田美波里さんも芸能関係者から同様の事を言われていたようなので、当時はそのような空気が多少なりともあったようですね。
親の愛情が不足している中学生が、人生の多感な時期をそのような芸能界の中で過ごしたと考えると、薬物に手を出した理由もなんとなく分かるような気がします。
1960年代の後半、日本クラウンに移籍する前(おそらく逮捕前)には父親を探そうとしていたという事なのですが、続報がないので、結局父親とも会えずじまいだったようです。
時は下り…
彼女には異父姉妹がいたそうで、2009年に青山さんの事を探していたようですが、
Brenda Kerry Weiss is looking for her half sister, Michi Aoyama. “My family and I very much to contact her. Apparently she was a famous singer in the 1960s. Can anyone help us find her?”
http://www.japantimes.co.jp/
こちらもニュースになっていないので、結局は合えずじまいだったのでしょうかね。
記事にはブレンダー・ケリーという人物の名前が見えますが…
晩年は生活保護を受けて暮らしていたそうです。
現代でも通用するヒット曲でもあったら多少なりとも印税が入ってきてたのでしょうが、いかんせんそのような要素は彼女の歌には薄いような気がします。
もう少しお色気路線、あるいはコミック路線だったら根本敬主宰の幻の名盤解放同盟で復刻された可能性も無きにしもあらず。
尤も契約形態がどのようなものだったのかはわからないのですがね。
喪主は長男の加藤大輔さんという方なので、最晩年は彼の援助を受けていた可能性は十分ありえます。
13歳でデビューし、25歳で芸能界を追放された青山さん。その後の42年間の経緯を想像するとなんともやりきれない気持ちになってしまいますね。
謹んでお悔やみを申し上げます。