日本シンクロ界の母と呼ばれ、
そのスパルタ式の指導でも物議を醸している井村雅代さん(66)
一時中国のシンクロのコーチをつとめ、国内からはバッシングの声も
上がりましたが、実はそれには裏があったようで…
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という事で彼女が中国へ渡った理由や、結婚について調べてみました。
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名前 井村雅代
生年月日 1950年8月16日 66歳(2016年12月現在)
出身地 大阪府
水泳を始めたのは小学校の頃でシンクロを始めたのが中学の時だそうです。
シンクロナイズドスイミングがオリンピックで正式種目として採用されたのが1984年のロス五輪からなので、五輪目的で始めたわけではないようです。
1972年-ミュンヘンオリンピックへ出場しますが、この時シンクロナイズドスイミングは公開競技として行われただけでした。
選手としては、日本選手権で2度優勝という輝かしい実績を残しています。その後1975年にはその実績を買われ、母校の教師としてシンクロの指導にあたり、
1981年-教職を退職、以後指導者として現在に至ると。
つまり、今年で
指導歴41年!
という大ベテランです。
これでは各国が喉から手が出る程欲しがるはずですわ。
選手として実績があるからと言って、かならずしも指導者として優れているとは限らないのですが、彼女の場合は指導者としても優れている、いやむしろ指導者としての才能のほうが抜きん出ていたようですね。
結婚についてはウィキペディアに、
1977年-同僚の体育教師と結婚
とあったのですが、元ソースを探しても見当たらず。
他サイトを覗いても同様にウィキを元にした情報のようで、
詳しい経緯はわかりませんでした。
25歳で母校に請われる形でシンクロの指導者として活躍し始め、
2年後に職場結婚、姓が井村(以前の姓は不明)になった。
まとめるとこのような感じになります。
子供についての情報もありませんでした。
因みに結婚の翌年の1978年には日本代表コーチに就任しています。
2004年-つまりアテネオリンピック後、井村雅代コーチは日本代表のヘッドコーチをやめ、自分のクラブで若手の育成に励んでいました。
そんなところへ飛び込んできたのが中国からのオファー。
「今度の五輪でメダルを取りたい。何色のメダルでも良い。そのために、今、一生懸命がんばっているが、経験もノウハウもない。あなたの素晴らしいコーチ力を貸してくれないか」
http://japanese.cri.cn/81/2008/01/30/1@111556.htm
2008年には北京オリンピックが開催される、そのためにもホスト国のメンツにかけても各種競技でより多くのメダルを獲得しなければいけないという、国家的な使命が背景にあったようで、彼らからの懇願に対し、
「これじゃ、もう断れない」。すぐに心を決めた。
とオファー受けます。
これに対し国内からは、何故中国のところへいくんだ?という批判が上がり、ギクシャクした日中関係を引き合いに出し、一部からは売国奴とまで言われてしまいます。
一方で「よくやった」と称える声も上がっており、当時は賛否両論、喧々諤々、つまり良くも悪くも話題になったようです。
表向きは熱烈オファーによる中国の指導者への就任という事でしたが…
実は日本代表のヘッドコーチを辞めた理由が、指導方法に関して運営側と対立したため、とも言われているので、そのへんも微妙に影響しているような気もします。
つまり、中国で自分のスパルタ式指導を徹底的に試してみたい、という思惑もあったようですね。
井村式スパルタ指導の甲斐あってか、いままでメダルにかすりもしなかった中国が北京オリンピックでは個人で4位、団体で3位。
その後ロンドンでは2位、リオで2位と大躍進を遂げています。
その理由は何か?
一言でいえば中国人選手のやる気とスタイルの良さ。
日本人にはとうになくなったハングリー精神、つまりメダル獲得のためならなんでもやるという旺盛な精神力が中国人選手には存在していたという事。これが一番大きかったようです。
もっとも人口10億人超の国ですので、ハングリー精神旺盛、かつスタイルのいい選手が集まらないはずがない、とも言えますが。
中国人がスパルタに耐えられるのかという疑問も浮かんできましたが、
競技場内では対戦相手だが、競技場を出ると、相変わらず子弟の関係だ。「私が先生に挨拶すると、先生は昔と全く変わらない様子で応えてくれる」と黄雪辰選手は笑いながら話した。
http://japan.visitbeijing.com.cn/play/entertainment/n215073881.shtml
こちらはリオ五輪で個人銀メダルに輝いた黄雪辰選手の言葉なのですが、井村さんが中国から去っても選手達からは未だに親しみを込めて先生と呼ばれ慕われているようです。
つまり井村さんの指導方法は少なくとも彼女にとっては正しかったと。実に心温まるエピソードですね。
http://physiqueonline.jp/specialist/trainer/page153.htmlより
彼女は中国の政府機関紙の人民日報で以下のように答えています。
そして、私には何よりも目指す目標がある。アジアの一番が世界の一番になってほしいこと。できれば、一番と二番の争いは、中国と日本の間で展開してほしい。
http://japanese.cri.cn/81/2008/01/30/1@111556.htm
おそらく本音はアジアが世界の覇者になる事、そのためにも中国にがっばってもらい、軟弱になった日本のシンクロ界へ活を入れる、そこに狙いがあったのではなかろうかと。つまり日本を愛しているからこその選択、つまり外圧によるシンクロ界の改革を含めた日本のシンクロ技術の底上げだったと、個人的にはそのように感じました。
http://j.people.com.cn/n/2015/0805/c94473-8931297.html
さて、実は彼女以外にも海外で活躍している指導者がいるのですが、彼女の名前は藤木麻祐子(ふじきまゆこ)さん。
1975年生まれの41歳。元シンクロの選手で1996年アトランタ五輪の団体で銅メダルを獲得しています。
彼女は2003年から2010年までスペイン代表のコーチを務めていましたが、結果は、
2008年北京オリンピック-団体、個人共に銀メダル獲得
2012年ロンドンオリンピック-団体3位 個人3位(既にコーチ辞任していますが)
と、チーム大躍進に貢献しています。
その後2014年には井村雅代コーチの後任として中国代表にヘッドコーチに就任。
傍から見ると井村、藤木と、日本を捨てた優秀なコーチが他国のチームをせっせと強くしているだけのように思えますが…
以下の話はどこかで聞いた情報なので真偽の程は定かではありませんが、という事を承知の上で読んでいただきたいのですが、彼女らが海外へ渡った真の理由は…
打倒ロシア
つまりロシアに中々勝てない理由を吟味した結果、見た目(スタイル)も関係あるのでしょうが、実は採点方法にもその理由がある事に気づいた二人は、日本流のシンクロ、つまり日本人の体型にあったシンクロを世界標準とするために、各国へ散らばっていったと。
個人的には井村さんと藤木さんの間でその辺に関して暗黙の了解、もしくは実際の話し合いがあったと睨んでいるのですが、2004年に井村さんが日本代表コーチを外れ、その前年の2003年に藤木さんがスペインに渡った事を考慮すれば、辻褄が合うような気もします。
しかし、井村雅代さんはインタビューで
— そのへんの意識は中国チームなどと比べると違いますか?
全然違う。むこうはダイレクトですよ。勝ちたい。メダル獲りたい。日本人は何かそういうメダルと獲るとか言うことまで心に秘めているのがいいみたいなのがあって、そのクセゆとり教育の典型は、どんな目標って聞いたらすごい目標掲げるの。「ロシアと同じ点を取りたい」って・・・もう100年早いわ(笑)。http://physiqueonline.jp/specialist/trainer/page153.html
とも答えているので、ロシアとの埋めがたい溝はかなりあるとの認識を示していることから、逆に言えばやれることはなんでもやるとの意気込み、悪く言えば捨て鉢になって海外へいったとも言えますが、おそらくそのへんの明確な区分というのは当人達にとってもわからないのではないでしょうかね。
という事で長々となってしまいましたが、私のように本人達の意思とは裏腹に(?)様々な憶測を飛ばしている人間が数多くいるという事を彼女達は重々承知しつつも、己の道にをせっせと歩んでいると考えると、思わず平伏しそうになってしまいました。
以上井村雅代さんについてでした。