最近若手演歌歌手、とくに男子が盛り上がっているようです。
歌謡ポップスチャンネルでは演歌男子という番組まである事から今後密かなブームになりそうな予感がします。
氷川きよしを筆頭に山内惠介や竹島宏、三山ひろし、北山たけし、川上大輔、はやぶさ等々、数多くの若手が台頭してきています。
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本日はそんな中の一人、三山ひろしさんについていろいろと調査してみました。
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http://ameblo.jp/より
本名 | 三山ひろし(みやまひろし)・本名 恒石正彰(つねいしまさあき) |
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生年月日 | 1980年9月17日 35歳(2016年5月現在) |
出身 | 高知県南国市 |
血液型 | AB型 |
デビュー | 2009年 |
特技 | けん玉(三段)・裁縫(生地から服を作れる)竹とんぼ作り |
事務所 | 日本クラウン |
ざっと経歴を調べたところ、かなり苦労した人生を送ってきているようです。演歌歌手は己の情念を歌い上げる職業だけに、その経験が実はすごいお宝なのかもしれませんね。という事でざっと生い立ちを振り返ってみましょう。
1990年、養子だった父親が家出してしまいそのまま離婚。理由は不明。ひろしさん10歳の時です。
家族は祖父母と母、そして弟の5人暮らし。祖父母が演歌好きだったらしく、演歌だけを聴かされて育ったという事でした。
父親が家を出て行った事で家計は苦しくなり、母親に苦労はかけられないと思い立ってか、中学1年生の時に新聞配達を始めます。
いわゆる苦学生というやつですが、今時めずらしいですね。おそらく祖父母は年金暮らしで、弟もいるという事を考えると兄として母親をささえなければという自立心が芽生えたのかもしれませんね。そのような意味では父親の出奔も彼にとってはプラスに働いたのかもしれません。ちなみにひろしさんはお父さんの事が大好きだったそうですよ。
祖父母から演歌を聴かされ続けた影響からか、歌には自信があったようですが、カラオケ大会へ何度も出場しますが、優勝するまでには至りませんでした。そんな理由もあってか高校卒業後はガソリンスタンドへ就職する事を決めます。
つまり高校卒業の時点で歌手への望みが全く無かったわけではないのでしょう。しかし現実の厳しさを目の当たりにすると同時に弟の世話や母親を支えなかればいけないという思いと自分の夢を天秤にかけた結果、現実的な選択をしたという事なのでしょう。
しかしそんな彼の苦悩を察したのか、祖母からは執拗に歌手になる事をすすめられ、どういうわけか詩吟教室へ通い始めます。おばあちゃん、間違っちゃったんでしょうかね?
その道の才能があったのか、多くの賞をもらい、詩吟の師匠になるようにも勧められたとか。高校卒業後から習い始めてからの才能開花とはいささか遅咲きの感も否めませんが。それともよほど詩吟界に若者が不足しているという事なのでしょうか。はたまた世間からはエロ詩吟という不名誉な認知のされかたをしてしまったので
「ここはひとつ三山くんで詩吟のイメージを回復せねば!」
という思惑があったのか。
そんな周りからの猛プッシュにもかかわらず、本人は「やはり演歌が歌いたい」と演歌のレッスンを受け始めました。
2004年、つまり三山さん23歳の時、NHKのど自慢で優勝。それでふんぎりがついたのか、24歳の時に会社を辞めて上京します。
東京へきてまず市場で働くも、昼夜逆転の生活がきつかったのか3日でやめ、その後カラオケレストランの張り紙を見て応募し、ウエイターとして採用されます。
偶然にもその店のオーナーが演歌歌手という事だったので、彼は面接の時におそらく夢を語ったのでしょう、無事採用され、空き時間にはカラオケを歌い練習に励んでいたという事でした。
そのお店の名前は「ライブレストラン青山」。オーナーが演歌歌手の松前ひろ子さん。
http://www.sanspo.com/より
そのお店は夜の営業だけだったので生活が苦しく、昼にコンビニでアルバイトをしたいと申し出るとそれがキッカケで彼女の付き人として採用されます。
その温厚そうな顔に似合わず松前さんは厳しかったそうで、夜は店で働いて昼はファンクラブの会費や会報管理、さらにはホームページの作成までやらされます。その他にも掃除送迎、身の回りの世話というブラック企業も裸で逃げ出してしまいそうなスパルタぶりで寝る間も殆ど無い日が3年間も続いたそうです。
よく過労死しなかったですね。松前さんは今年で66歳。やはり彼女も厳しい師匠の元で育てられて
「よし、積年の恨み晴らさでおくべきか!」
と思ったのか(冗談ですが)、それとも厳しい演歌業界(上手い人やなりたい人が山のようにいる)で生き抜いていくためにはこれぐらいの事をしなければ、と思ったのかは定かではありませんが…
と思っていたのですが、実は松前ひろ子さんの旦那さんというのが作曲家の中村典正(なかむらてんしょう)さん。つまり松前ひろ子さんの付き人にして中村さんとういう大作曲家の弟子でもあったので、厳しかった師匠というのは実は中村さんの事を指していたのかもしれませんよ。
作曲家であり、師匠でもある中村典正先生から”スケール感のある詞だから、しっかり読んで、自分の体に染み込ませるように”と言われて臨みました
http://www.clubdam.com/より
そんな過酷な労働条件と引き換えに大作曲家先生とベテラン演歌歌手の指導と、さらには業界のコネというお金には変えられないお宝を手に入れた三山さんですが、その指導の甲斐あってか
2007年-日本クラウンの新人オーディションで準グランプリを獲得。
2009年-「人恋酒場」でクラウンレコードからデビューします。そのデビュー曲がCDが売れないと言われているこのご時世に10万枚を突破という快挙を成し遂げます。
以後も順調な活躍を続け、2012年にはオリコン演歌チャートでついに1位を獲得します。
2015年–第66回NHK紅白歌合戦へ初出場で一気にその名を世間にしらしめる事となりました。
しかし、というかなんという言い方をすればいいのか少々悩むところではありますが、紅白出場の裏には業界大手プロダクションのバーニング(社長:周防郁雄)の力添えがあったとも言われています。小林幸子さんが落選した背景にも同事務所の思惑があったのではないかとも囁かれているほどに、その影響力は無視できないものがあるようです。
しかし個人的に気になるのが何故バーニングが日本クラウンの歌手を?というところ。ちょっと検索しただけでは何も出てこなかったので、作曲家先生と社長が歳も近いという事で個人的な便宜を図ったのか、それとも気に食わない歌手がいたのかという線ではないでしょうかね。
三山さんは手先が器用なようで、2015年にはけん玉検定で3段を取得(芸能界では最高位)した事をもって一部ではけん玉演歌手とも言われています。
ウリ文句を無理やり作るためにけん玉を習ったわけでもないのでしょうが、その他の趣味が裁縫や竹とんぼ作り、だという事を考えると、おそらく父親が家を出て行った孫に寂しい思いをさせまいとして忙しい母親にかわって祖父母がひろしさんに様々な遊びを教えていた結果ではないでしょうか。
捨てる神あれば拾う神あり、とでも申しましょうか、ブラック企業以上に過酷な労働環境下で働いていたひろしさんですが、そのような懸命な働きを見初められたのか、2012年松前ひろ子さんの次女の洋子さんと結婚をします。
娘の洋子さんも三山さんと同じレストランで一緒働いていてたという事なのでいわば同僚であり職場結婚。結婚した理由は「優しかったから」という事でした。
邪推すると師匠の娘だから特別優しくしていたのかもしれませんが、それはともかく、娘からいったのか、それとも三山さんからいったのかは分かりませんが、無事結婚へと至ります。
そして現在は2歳の長女と8ヶ月になる長男の2児のパパです。稼がないとけいませんな。
過酷な生活環境で育ってきた割には表情が緩やかで余裕がある顔つきをしていますが、おそらく祖父母、及び苦労人の母親に優しく育てられ、かつ弟の面倒をみなければという大人としての自覚が早くから芽生えたゆえのゆとりが全身から漂っているような、そんな気がします。
これからの課題はけん玉演歌歌手という肩書を捨てられるほどのインパクトのあるヒット曲を出す事ではないかなと個人的には思っております。
以上三山ひろしさんについてでした。