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その昔、プロ野球が毎日のようにテレビ中継されていた時代があった。そして、その中継のほとんどが巨人戦。当然のごとく、当時の野球ファンはそのほとんどが巨人ファンだった。そして巨人のスター選手と言えば、「王・長嶋」であり、その後、原辰徳や江川卓、松井秀喜などに引き継がれていく。
そういったスター選手の中で、記録ではなく、記憶に残る選手として中畑清がいた。この中畑の結婚、そして最愛の奥さんとの別れについて調べてみたが、いかにも彼らしい、ひたむきな姿が垣間見れた。
中畑は1954年1月6日生まれの65歳。出身は福島県の西白河郡で、ここはあのTOKIOの「ザ!鉄腕!DASH!!」での企画「世界一うまいラーメンを作る」で、麺を作るための小麦を栽培するために選ばれた場所だ。
つまりどこまでも畑が続くという、のどかな地域。実際、中畑の父親も牧畜業を営んでいて、中畑自身もその家業を手伝いながら、ソフトボールや野球を楽しむ小中学校時代を過ごした。
中学校卒業後、中畑は郡山市の帝京安積商業高校へ進学し、本格的に好きな野球ができるようになった。大学は駒沢大学で、当時から個性溢れるキャラとして注目を浴びていた。その大学時代の活躍により、中畑は1975年のドラフト会議において、巨人から3位指名される。
この時中畑は、北海道拓殖銀行から内定を貰っていたが、監督が長嶋茂雄さんということと、駒大の同期生2人を一緒に入団させるという条件を飲んでもらうことで、入団を決意した。背番号は24。
そして、ちょうどこの頃に仁美さんと結婚し、娘と息子を授かった。さて、中畑の現役生活だが、逆境の連続だった。入団当時の巨人は、王貞治がまだ現役で、その他にも安打製造機の張本勲、土井正三、高田繁など、常勝巨人軍の選手層は厚く、3年もの間一軍で中畑の勇姿を見る機会はなかった。
しかしその3年目のオフのこと、日米野球の第1戦で中畑は途中出場のチャンスを得る。このチャンスに中畑は2点本塁打という最高の結果を残し、翌年から一軍出場に恵まれるようになった。
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1980年に長嶋監督が辞任、王も現役引退となると、その翌年にあの原辰則が入団。結果的に三塁の守備を奪われ、また篠塚利も才能を開花させ、中畑は一塁守備へと回される。しかし、中畑は腐ることもなく一塁手として堅守を見せ、ゴールデングラブ賞を受賞する。
その後、中畑はある程度の打率を残すも、首位打者には縁がなく、また故障にも悩まされ、1989年に引退を表明。このように中畑は記録には恵まれなかったが、「絶好調男」として野球界を盛り上げた功績があり、ファンの記憶には強烈に残っている。
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この「絶好調」だが、入団したばかりの中畑が、長嶋監督に「調子はどう?」と聞かれ「まあまあです」と答えたのを聞いた土井が「絶好調」と答えろと叱りつけたのがきっかけだと言う。それ以来、この言葉は中畑の代名詞となった。
中畑が妻の仁美さんと知り合ったのは中畑が駒大4年生の時のことだ。駒大の合宿所の近くにある八百屋さんで仁美さんがアルバイトをしていて、中畑は一目惚れ。彼は北海道拓殖銀行に行くつもりだったため、プロポーズの言葉は「北海道に一緒に行ってくれないか」だったそうだ。
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現役時代、仁美さんは中畑を支え、2011年のオフに横浜DeNAベイスターズ監督就任の後押しもし、公私ともに中畑の支えとなる。
しかし、2012年2月に子宮頸がんと診断され、30回近くに及ぶ放射線治療も効果は出ず、その年の12月に亡くなった。10ヶ月の闘病期間中、中畑は仁美さんを励まし続けた。病床の仁美さんは「腰が痛い」「脚を揉んで」「枕の位置を変えて」など、中畑に初めて甘えたそうだ。素直に優しくそのわがままを聞く中畑。「まだ死にたくない」という仁美さんの訴えに、「俺がこうしてると絶対にかあちゃんは治る」と元気づけてはいるが、親しいスポーツ記者たちの前では泣きじゃくったと言う。
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12月に入った途端、仁美さんの容体はさらに悪化。医師から「3、4日」と告げられる。中畑が仁美さんに送った最後の言葉は「かあちゃん、愛してるよ」だ。そして意識朦朧とした仁美さんの口からも、声にならない「あいしてる」が。そしてこれが夫婦として最後の会話となった。
いつまでも元気で明るい「絶好調男」の中畑。人に元気を与えるには、まず自分自身が元気でなくてはならない。そしてその元気はどこから貰うのかと言えば、やはり家族の笑顔からだ。中畑の息子が経営する焼肉店の店名が「ホルモン家族」というのも、中畑の家族に対する思いがきちんと息子に伝わっている証だろう。
筆者は阪神ファンで、アンチ巨人だ。そのため巨人の選手、果ては出身者まで揃って嫌いなのだが、こういう話を知り、中畑に対する印象が大きく変わってしまった。現役時代の記録は平凡なものだが、それでも中畑のプレーには人の心を打つ何かが確かにあった気がする。人は逆境を乗り越え、それを糧に、誰かを「絶好調」にさせるために生まれてきた。今思えば、中畑のプレーはそれを伝えていたのかもしれない。